悠ちゃんの3ヶ月闘病記
12月27日から3月22日まで強制入院させられてたよ。最初は緊急入院?応急入院?からの医療保護入院。なんにせよ、外には一歩も出られないという鬼の入院でした。
精神病棟で音楽療法士として働いている親族が言ってたけど、「こういう精神的な病気というのは1番落ち着く【慣れた環境】でしっかり休むことで治っていくと言われている。つまり、慣れない病院で休んだところで病状が悪化する場合も多い。それが精神病棟の闇とも言われている」だそう。
ほんと、その通り!
あんな騒がしくて硬いベッドと枕で、いつもと違うお薬で逆にメンタルで朝6時起き、夜8時に寝る?!逆におかしくなるわ!という感じでした。
まぁでも今回の場合、私を家に1人で置いておいたら死ぬかもしれないと思われたから入院させざるを得なかったのは分かります。何よりも娘が寂しいのに頑張ってくれてるのが辛い。
今は私が元気になるまで保護してもらってるのですが、3ヶ月ぶりの面会の時は、会った瞬間に娘、声も出なくて涙がバーって出て、「わー!」って倒れてしばらく立ち上がれなくなってた。
大人でも3ヶ月長かったんだから、子供が感じる3ヶ月なんて永遠だっただろうな。しかも「ママは入院してる」と聞かされてるから、凄い心配してたと思う。普段から私がお薬飲む姿を見ては、「ママ、お薬大丈夫?無理しないでね」と声をかけてくれる。本当に申し訳ない気持ちでいっぱい。面会中は何も言わずにずっと私に抱きついてたな。
「お友達はできた?」と聞くと、少し言葉をつまらせてから、「できたんだけど、、、退社していった」だって。そうだよね、そういう場所だもんね、色々あるんだね。
私が入院するほどまでにパニックになった原因は、恐ろしい現実を知ったこと。
「私に何かあったら」というのは、ひとり親なら誰でも考えると思うんだけど、それを何かあった時のために娘のためにメモしてたら、(私に何かあったら誰に娘の面倒を見てもらいたいなど)。
【私がどう願っても、第一に、次の親権者の娘のパパのところにいく。そこで引き取ってもらえなかったらうちの母のところにいく。それでも引き取ってもらえなかったら施設に行く】という現実を聞いてしまった。そこで、わー!!と大パニックに。
娘のパパならまだいい。育ててくれるかは知らないけど、悪い人じゃないし、背中を見て学べることも多いと思う。
でも、「うちの母のところにだけは行っちゃだめ!!!」と、パニックになった。
「ヤバイ、とにかく結婚しなきゃ。結婚したらその人に育ててもらえるから、あのヤバイ母のところにいくのを防げる。とにかく結婚しなきゃ!!!」と大パニックになり、、、。
今日も話を聞いたけど、全然覚えてないんだけど、知り合いに結婚してって頼んでたらしい。今日、弁護士ずてにその文章を読み上げられてビックリ。結婚ねぇ。でも、母に引き取られるくらいなら絶対に結婚した方がいいんだもん。
そんなこんなで気づいたら入院してた。
知らない方が良い現実もあるということを知った。
その現実を教えてくれた人も、ただただ現実を教えてくれただけなんだろうけど、私にとっては残酷な現実過ぎたので、その現実も、その人のことも受け入れられなくなってしまった、、、。
希望的観測で、「母も歳を取ったら丸くなって意外といい人になってるかもしれない」なんて甘いことをいう人もいるけど、そんな人じゃないんだよ。
人がそんなに変われるわけない。どうせまた私の時みたいに、「あなたの夢は東京芸大か桐朋学園のピアノ科にいって、ピアニストになること。あなたの今の目標は神戸女学院に行くこと」と、私が一言も口にしたことのない目標や夢を押し付けて、私が本当にしたかったスポーツや遊びは何もさせて貰えない人生になる。娘にだけはそんな人生を送らせたくない!!自分の夢や目標を親に勝手に設定されて、自分が何がしたくて、何色が好きかも認識できなくなるような幼少期〜成人期はキツ過ぎた。それを思い出すと恐ろしすぎて、そこから記憶が飛んで、死ぬって言い出して、病院に運ばれた。死ぬ気はなかったんだけど、死ぬほどパニックだった。
母は自分が音楽家になりたかった人らしい。大人になってからピアノを始めたのか、少し弾いてるのを聞いたことがあるけど、まぁ下手クソ。だからといって、なんで私が母の願いを叶えなければならないのか。自分の夢を子供に託すような親だけにはなりたくない。そう思うと、今娘は「DJやりたい」と言ってるけど、もちろん無理やりやらせようとしてないけど、「ママがやってほしそうだから」って気遣って言ってないかな?って、ちょっと心配になったりもする。
私はピアノや音楽は大好きだけど、「上手く演奏すること」に全く興味がない。だから音大に行きたいわけもない。けど、中途半端に小学生くらいまでは才能があって、「この子ならどこの音大にでも行ける」なんて色んなお偉い先生方が私を褒めるものだから、母も本気になってしまった。
私のピアノの全盛期は小4。どこのレベルの音大に行けるかは、だいたい小4にもなればわかるみたい。小4時点の私は確かに上手かった。それは、父がいたからだと思う。
小4で父を亡くすまでは、父に褒められなかったし、父は私のピアノを好きでいてくれたし、父に勉強を教わるのも楽しくて、ピアノも勉強も優秀と言われる部類だった。
けど、小4で父が亡くなり、当たり前に勉強やピアノどころではない。ただただ悲しみたかった。中学受験の勉強やピアノなんて、父が亡くなったショックの中やってたら、心が壊れてしまう。
そんなことも知らずに母は、ピアノの先生の前で、こんなことを絶叫してた。
「この子は絶対に神戸女学院に行きます!神戸女学院に行けないということは、東京芸大も無理だという気持ちでやっています!!」と、、、。
横で聞いていた10歳の私は唖然として、何も言えなかった。
「私、神戸女学院に行きたいといったことも、音大に行きたいといったことも、一度もないよ、、、?」
そう思った気がするけど、その時は唖然としすぎて、自分の頭の中でうまく言葉をまとめられなかった。だから黙った。先生も、唖然としていたのは覚えてる。
先生はいい先生で、何度も「お嬢さん、ピアノ好きじゃないから辞めさせてあげたらどうですか?」と言ってくれてたのに、その度に電話口で先生にブチギレてた母。今考えると強烈な毒親である。
毒親という言葉が流行った時「あんたは過干渉型の毒親の典型だ!」と言ったことがある。すると謝るどころか、urlが送られてきた。見ると、【なんでも毒親という言葉をつかって、親のせいにする子供が増えている】という内容の記事だった。どっからそんな記事見つけてきたんだよ笑。検索能力だけは高い。
まぁ、そんなこんなで結局、私立で1番良いとされている神戸女学院に行くための勉強なんてできるメンタルじゃなかったから、母に言わずに塾の先生のところにいって、勝手に「志望校下げます」と言った。
「今から頑張れば行けるのに勿体無い!」と言われたけど、「頑張りません」と宣言した。私の「頑張らない」という意志は硬すぎたので先生も志望校を下げるのに納得してくれた。
それでも、なんとなく娘というのは母をどれだけ憎んでも嫌いになれない生き物。親が子供に対する愛が無償なんじゃなくて、子供が親に対する愛が無償だというのを常々思う。子育てをしていてもそう。だから、その「無償」に甘えちゃいけない。
私もどこかで、「せっかく塾に行かせてもらったのに神戸女学院に行けなくて申し訳ない」「せっかくピアノの英才教育を受けさせてもらったのに申し訳ない」みたいな気持ちがある。
だから、音楽業界に就職したようなところもある。
もちろん、父の仕事JPOPに救われたというのが1番の理由なんだけど、
どこかで母の期待に添えなかった自分を責めていた自分は、avexの入社試験に受かった時、母に、
「avexに受かったのはピアノをやってたお陰だと思う。あの時ピアノやってたのは無駄じゃなかったよ」と、思ってもないことを言った。思ってもないけど、それを言うことくらいしか親孝行ができない気がして。
それを聞いて母が本気で無邪気に喜んでいたのが忘れられない。友達にもそれを自慢してた。
全然本心じゃないこんな言葉を本気で信じて無邪気に喜ぶ母の姿を見て、なんだか愕然とした。
「本当にこの人、私のこと何も知らないし、私のこと何にも分かってないんだな」そう思って、切ないような寂しいような悲しいような、なんとも言えない気持ちになったのが今でも忘れられない。
会社は3年でやめちゃったけど、もちろん入った時はそこに骨を埋める覚悟で本気で頑張ろうと思ってた。働くからには出世する、ビッグになる、社長になる、1番を目指さないと意味がないと思ってた。
それも、今考えると親孝行のため。自分のためじゃない。ある時、変な上司に飲み会で潰れるほど飲まされて、お酒アレルギーなので飲めなくて、トイレで吐きまくって大泣きしたことがある。
その時、トイレで泣きながら「お母さん、ごめんなさい。期待に添えなくてごめんなさい。」と、意識朦朧としながらウワゴトのようなことを口走っていた。
そしてその瞬間、我に帰った。
「私、なんでお母さんに謝ってんの?私の人生なのに、なんで??」
それが、母の毒に気づいた瞬間だった。23歳。私としては、気づくのが遅すぎるけど、、、早い方らしい。
「過干渉という毒親の毒」には、死ぬまで気づかないか、40.50代になって気づく人が多数らしく、私はかなり早く気づいたら方らしい。
それをとあるカウンセラーさんに話すと「とにかく物理的距離を起きなさい。そうじゃないとあなたはあなたの人生を生きられなくなる」と言われた。
そんなこんなで今に至る。
それでもなんとなく、「あー、親孝行できてないな」って感覚はどこかにある。
口では「私が生まれてあげた時点で親孝行は終わってるのよ」と言ってみても、子供は本能的にどうやら親孝行をしないと、と思ってしまう生き物らしい。
でも、やっぱりもうあの親の顔は見たくない。
だから、今回の閉鎖病棟での入院で、親と同い年の人と仲良くなったんだけど、その人が「悠ちゃん悠ちゃん」とすごく可愛がってくれて。
「悠ちゃんといるとすごく楽だわ。なんか気を使わないもんねぇ」とオットリしてる、おばあちゃん。いつもどら焼きと雪の宿を食べているおばあちゃん。
「うちの母も、こんなにおばあちゃんなんだぁ」と、ビックリしたな。
母じゃなくて、そのおばあちゃん「京ちゃん」と色々お話して、できないことをやってあげて、肩揉みしてあげて、そんなことをしていて「親孝行みたいなこと」ができたことによって、なんだか癒されていく自分がいた。
京ちゃんは、1ヶ月くらい隣の席で一緒にご飯を食べてたけど、新しい施設への入所が決まったらしくて、あっさり退院していった。もう一生会わないのかと思うと寂しいけど、そんな一期一会が入院生活にはあった。
つづく(かも)